昭和50年05月20日 朝の御理解



 御理解 第79節
 「商売をするなら、買い場、売り場というて、元を仕込む所と売り先とを大事にせよ。人が口銭を十銭かけるものなら八銭かけよ。目先は二銭損のようでも、安うすれば数が売れるから、矢張りその方が得じゃ。体はちびるものではないから働くがよい。」

 目先は二銭損の様でもと、是は勿論商売をする人に対する御理解ですけれども、是は誰でもが頂ける。誰でもがいや頂かなければならない。信心させて頂く者が誰でもも頂かなければならないという、まぁ見地に立っての御理解を聞いて頂こうと思う。目先は二銭損の様でもと言う事は、信心させて頂く者が目先目先の事で左右してはならぬ。目先目先の事ではいけん。信心さして頂くならば神様の思い神様の深い広いお心を推慮させて貰いながら信心を進めて行きませんと、惟程信心するのにと云う様な事になります。
 目先目先の言うなら利得に迷わせておったら、如何にもそれが得の様であるけれども、結局は本当の得にはならない。本当の得という事は、御神徳の徳である。損得すると言う得は、得という字である。目先目先の事をお取次を頂いたら、私共は解りませんから先の事は、だからお取次を頂いたら神様にお任せると云う事にならなければならない。元を仕込む所と売り先とを大事にせよとこう仰る事でも、アレンジして頂くなら、教会は元を仕込む所、自分の家に帰ったら、売り場売り先と思わねばならない。
 此処にはいうならば、信心の元おかげの元、徳の元を仕入れに来る所だと悟らにゃいけん。ね。だから出来るだけ良い品を、出来るだけ有難いおかげを頂いて帰らなきゃならない。それを自分の家に帰って愈々この売り場である自分の家は、又は自分の仕事の場所(現場)と申しましょうか、御用の現場は売り場である。その売り場で言うなら今朝仕入れて来た物を売って行くという働きを大事にしなければならない。
 此処では確かに有難いのだけれども、有難かったんだけれども、家に帰ったらそれが有難いものが無くなっていまっておる、と言うような売り方ではいけないと云う風にも頂けるのです。皆さん此処には確かにね、そのー本当の幸というか、本当の御神徳を受けさせて頂く為に仕入れに来てあるんですよ。それを言うならば、仕入れもせずに、又はそれを途中で無くしてしまったりね。
 それを高く売り付け様とするからおかげにならんのです。それこそ有難い仕入れ、それが目先の事を思うからそう云う事になるのです。目先は二銭の損の様でもと言う風にここに仰っておるね。十銭のものを八銭で売ると云う事は目先はちょっと二銭損の様だけれども、私共は今私共の願いが成就したが良かろうごとあるけれども、それは目先の事である。ね。先日日田から最近お参りしておる方があります。
 まあ本当にね熱烈な信心を、まあいうなら、心が躍っておる。昨日でしたか申しました。色紙を躍る心と云う色紙を頂いたその方です。もうそれは大変な難儀を抱えておりながらです、お参りして来てその事がどう云うな事か解らんけれども、もうその事は親先生にお任せをして、そのおかげは兎に角頂かんでもよい。早く頂かにゃならん事はないと思いますというて、その同じ支部員日田のし部員の方に話したと云う事を聞いておりましたが、惟は私はまだ具体的に解りませんけど、昨日電話が掛かって参りまして。
 あの様にお願いをしておりましたのが、もう具体的でないです、解りませんが、末永先生でしたかね、電話の掛かって来たのは、ああたが受けたのですかね。兎に角あのう広大なおかげになりましたから、取り合えずお礼を申し上げて下さいというて電話が掛かって来た。兎に角目先の事を捨てて掛かったんです。もう頂かんでんと思いよった。この事ば頂きたいばっかりにいうならば、合楽までも、然も三千五百円も車代がいるんですよ。ここまで参って来るには。
 この事ばどうでも聞いて貰うて、この事ばどうでもおかげ頂きたいと思うて参って来るんです。まあ来たんです。そして段々お参りしている内にです、もうそのおかげは頂かんでも、又は早くと云う様な思いを捨ててしまったと。それは支部員の方にそう云う風に言っておりますと。今度日田の支部の御大祭の時でも、もうそれこそその方の御用ぶりと云う物は皆んなが目に付く程しの一生懸命の御用ぶりであった。
 こざこざとしたいろんな問題があって、女の人達ばかり寄って、ガチャガチャ言いよった時に、そげな事はなかですがというたと。もう私は信心させて頂いとったらですね、そう云う風に例えばそこに問題があっても、そげな事はないですがと言えれる信心にならねば駄目です。
 そげな事ですか、それならというてです問題を問題にする様な事を云う人があるかと思うと、そんな事はないですがと、こと神様の事ですかそんな事はなかですがというて、その場は一変でおかげの雰囲気が出来たというて、昨日綾部さんもお参りして見えてそのお届けをしておられましたがね。本当にあのう心を開くと云う事は、そう云う事だと思うんです。もう目先の事じゃないです。
 もう其の事はどうでも良くなったんです。所が昨日の電話の模様では、あの事が此の様な広大なおかげになりましたから、取り合えず電話でお礼お届けさして頂きますというて、お届けがあったという。だからぁね如何にも、そう言う目先が二銭損の様なけれども、実を言うなら早くて実を言うたら本当のおかげが受けられるのです。そう言う心の状態になると云う事は、だからそういう心の状態を言うなら、願い求めて信心はするもんです。あぁいくらお参りしてもお参りしてもおかげ頂ききらん。
 どうしておかげ頂ききらんじゃろうかち云う様なじゃなくて、もうその事はね言うならばもうお取次の棚の上にあげといて、あげとかにゃ、棚の上に上げといて、そして只々信心を頂かして頂く事が、どう云う事になって来るかというと、そう云う事は問題じゃないがと人にも言えれる。例えば難儀な問題であっても、ややこしい問題であっても神様の御都合ですがとこう言えれる様な信心を頂かにゃいけんです。
 目先は二銭損の様であっても数が余計売れるからと仰る様にですね、もう二銭損の様だけれども、数が余計売れるからその利益と云う物はより大きいと云う事なんです。損すると云う事じゃないです。体はちびるものでないから働くがよい。働けと言われて中々働けるものじゃないけれども、心が喜びで躍動しとる時にはです、今のその方じゃないですけれども綾部さんが昨日言われる様に、その方の働きだけはね、皆んなが一生懸命真心一杯で働きなさったけれども、その人の働きは又特別に見えたと言われる。
 ちびるもんじゃないからと云う事が、やっぱり芯が有難うならなきゃ出ける事じゃないです。心が躍って来ない。生活の現場でです、それこそ言うならば、上役の人がね見とる、ああ、あの社員は中々見所があると云う風に目を付けられる位なです、特別な働きがでけると云う事は、心が喜びで躍動しとらなければ出来ないです。
 だから人よりも給料が高うなる又成功が早いと云う事になるのですね。だから此処はそう云う様なものを仕入れて帰らして貰える所なんです。だからそれを売り先ではどうか目先の事は言わずにねそれこそ真心こめて安う売ったら、目先は如何にも損の様であっても損じゃない。おかげがそげな事しよったら遅うなろうごとあるけれども、実を言うたらはやい。返って速やかにおかげを受ける事が出来ると云う事が言えますですね。
 昨日は久留米の石井誠之助さんの所の、子供さんが事故で亡くなりまして、丸四年になる 昨日は帰幽日でした。所謂お立日です。それで夫婦所謂子供達も一家を上げて清さん方の嫁の薫さんも一緒にお参りして来て、様々な云うならお供え等を用意して、霊様にお礼を言うて貰いたいと言うて参って来ました。もう普通は帰幽日でしたら、只あのうお取次をさして頂いて、そして玉串でもを作って、玉串だけあげて頂くんですけれども、丁度私が三時半に参って来ましたから、お届けが沢山ここに支えておった。
 次々とお参りがあっとりましたからだからこのお届けが終わってから、あのう玉串をあげて貰おうと思うた所が丁度四時まで掛かったお届けが。だから丁度四時の御祈念に間に合った訳です。間に合ったと云うか丁度四時の御祈念になった訳です。それでならあのう霊様にも私がなら御祈念をさせて頂こうというて御祈念、そして霊様に移って御祈念をさして頂いた。色々それこそ甘な辛な色々取り揃えてお供えがしてありました。
 そしたら私くしが、霊様の前で頂いた事がですね、なんち云うですか(末永先生覚えとらんか昨日のその御理解を)兎に角ね、こんなに色々沢山お供えして貰うたけれどもね、お母さんが作った物が良いと言うお知らせを頂きました。もう私くしはもう本当にあのう霊様とか神様と言う事はね、沢山なものばお供えすりゃ良いとか、沢山のお金ばお供えするとか、物ばお供えする。
 それよりも私しは有難いです、有難いと思うです。出来ると云う事は。けれども何と言うても真心が一番だと云う事が解るですね。あぁあの人がぼた餅が好きじゃったから、ぼた餅の一ちょもと。あの人は今度は辛い物が好きじゃったからこの辛い物の一つでもと、兎に角母親が子供の御霊へ対してお供えするのは、お母さんが作ったつがよかち。それけー私はその事をね頂いたからお話さして頂いたんですけども。
 昔ね小倉の桂先生が木曽山中で、所謂前の前の御広前が建立される時に、木曽山中に檜の伐りだしに行かれて、九州から偉い先生方皆んな連れてからそして献木をなさるのです。それを木曽山中で皆んな入って、御神意を頂きながら桧を切り倒おされる、そう言う御用をなさった。そん時に山中て大変な大病を患われた。それこそ担架に乗せてそのまま静かに本部御霊地まで帰って見えられた。もう難しかろう様にあるから、電報を打たれて、九州あの小倉の方へ電報を打って来られた。
 奥様が教会を守っておられましたから所謂奥様の所に電報が届いた。奥様はそれこそ取る物も取り合えず、金次郎様というまだ五つか六つのお子さんを連れて御本部に上がられた、行かれた。そして宿に着かれると同時に金次郎様が大変な高熱であった。そして今まであれ程大病であったと、もう難しかろう様におありになった桂先生が楽になられたね。そういう大病の人がです翌日は、自分自身が子供さんの事を金光様にお届けに行かれる程しに元気になられた。
 所が子供さんはその病気が元で御本部で亡くなられたんです。以前は御本部に参拝すると、必ずあの金次郎様の奥城にお参りさせて頂いたんですけれども、なぜかと云うと石碑の裏にも、おくりの詠が当時の佐藤宿老という偉い先生が書かれた詠が御座います「道のため、親に代わりて逝きにけり、真の道を求めもとめて」という、詠が書いてある。親の身代わりになられたという事です。
 道のため一生懸命にお父様がお働きになっとられる。そのお父様が例えば亡くなられると言う事であっては、道の御用が出来ん。それで親に代わって真の道を求め求めして幼子が逝った。亡くなったという詠なのです。それの丁度百日祭か一年祭の時だったでしょう。御夫婦で丁度御本部で偉い先生方にお願いなさって、霊祭を仕えて貰われた。先生はああした大きな公用をなさっておられたから、本部の事務局の方で何かと暇取り手間取って小祭りに、墓前祭のお祭りに間に合いなされなかった。
 それで奥様と二人でその墓前に額ずかれて、お礼をしておられる桂先生がもう、いくら経ってもいくら経ってもその御霊様の前で頭を下げておられるのか、頭を上げなさらん様にして御祈念をなさっとられる。それであのー奥様が御祈念が済まれてから、今日は何事かお知らせをお受けになられたのですか、何かあったのですかというてお尋ねになった時にです。今日はね、本部の偉い先生方にああした立派なお祭りをして頂いたけれども、お父さんとお母さんがおられなかったから淋しかったと霊が言うたぞとち。
 だからそのお詫びをしよったと言われたそうです。だからその話を昨日、私しは誠之助さんにさして貰いました。あの人達夫婦に。親と子と云う者はそういうその情というかね、交流というか、それこそ親は子薬(くすり)、子は親薬といわれる位ですからね。例えば親が病気をしとる時に遠方から子供が走ってその見舞いにやって来ると、もう子供の顔見ただけで、外の何の薬よりも効くという程しに親子と云う物はあるのです、親は子薬子は親薬と。ですからそういう情を持ってです。
 そういう思いを持って私くしは霊様に仕え又は、そういう情、所謂私共と天地の親神様は親子の関係にあるのですから、そう云う情が神様と私共との上に交流する様になって参りますとです、ああ知らなかった知らなかった神様の思いを解らせて頂いたら、こう云う事であった、目先目先の事ばっかり言うて相済みません。もうおかげはどうでも良う御座いますと言うような交流になって来る、通うて来るのです。ね。
 ですから目先は二銭の損の様でもと云う事が、目先目先のぶらさがっとるその前のおかげばかり焦点を置いておったんではです、信心が非常にきつい事になります。そしてそのおかげは頂いても、言うなら徳にはならんです。私共の信心いやここで本当の物を仕入れて、そして本当のものを目先の事をいうなら忘却して忘れて、そして人が喜んで下さる事の為に奉仕すると云う様な生き方を身に付けて行くならばです、それが神様の喜びにならない筈がない。その神様の喜びが氏子の心に通わない筈がない。
 そして成程親神様じゃなぁという心が頂かれて来る。その親神様じゃなぁと思うその心が、それこそ体はちびるものではない。働くがよいと。働けというて働けんのだけれども、心が信心の喜びに一杯に躍って来るとです、人が一つする時には二つ出来る様な御用が出来る様になるから、皆んなにも認めて貰う様になる。神様にも認めて貰う様なもう大変なおかげをおかげが生んで行く様な働きになって来るのです。
 ここで元を仕入れる時に本当な所を解って行かにゃならん。ここでは神様の何時も言うならばお心が解かれるのです。言うならば天地の心が説かれるのですだからその天地の心を心とした時にです神の心と皆さんの心が一緒になった時ですから、神様の思いが解る。思いが解ると苦しいけれども、神様の目先目先の事を言うておったんでは解らんのだけれども神様相済みませんとお詫びより以外はない様な心の状態が開けて来る。
 お礼を申し上げるより外無い様な心の状態が開けて来る。その心が神様と交流するのです。今日は七十九節、言うならば商売人だけの御理解と思うておったけれども、今日此の様に頂くとです、この御理解はそうではない事が解ります。その心というのは今日頂いた様な所を、私共が頂かして貰うと言うならば素晴らしいおかげの受けられる、所謂お徳の受けられる御理解でもある事が解ります。
   どうぞ。